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代表者のブログ

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「松下村塾に思う」 0

syouin

 

 

 

 

 

 

 

 

先日山口に行きました。仕事でしたが、萩まで少し足を延ばしました。今回の山口で一番印象深かったのは松陰神社です。 そこには松下村塾や吉田松陰の事跡がたくさん残されています。初めて訪れて長州や松陰への印象は随分違ったものになりました。

これまでは、どちらかと言う幕末の志士、明治の元勲達の中の長州人に対してあまり良い印象は持っていませんでしたが、それが変わりました。 印象が悪いのは若いころ愛読した司馬遼太郎の人物評の影響でしょうか。 そういえば年末の大河ドラマ「坂の上の雲」でも乃木大将が愚将であったように描かれていますが、そうでもないという意見もあるようです。

乃木大将は置いても、木戸孝允や山形有朋、伊藤博文など特に栄達を極めた人に対して良い印象がありません。翻って印象の良いのは同じ長州人でも久坂玄瑞、高杉晋作で、いずれも薄命でした。 松陰も30歳で幕府によって死罪となりましたが、改めて今回の訪問で松陰の生涯や詩文に接して西郷さんに並ぶ偉人であった事を知りました。

私の勉強不足で松陰はペリーの浦賀来航時に米国船への密航を企てた罪で死罪になったものと思っていましたが、そうじゃなかったんですね。 確かにこの密航事件で松陰は投獄されましたが、その後、許されて本格的に松下村塾で塾生薫陶に当たるのは、この事件の後でした。 松陰が幕府によって刑死になった直接の原因は「老中暗殺計画」です。

「もはや幕府の旧弊、頑迷はこの国のためならず」と思いを定めた松陰は時の老中間部詮勝の要撃を主張します。 この過激を恐れた藩の重役や門人たちが諌めるのを、松陰は「私は忠義を行うものであり、あなた方は功業を図るものである」と反論し、要撃断行を重ねて主張します。 これによって疎んじられ再び投獄された松陰は折からの安政の大獄で幕府によって召し出されます。 そして取り調べの席に於いても堂々の主張を行って、刑死することになります。 死に臨んでも恐れることなく、逍遥と刑場に赴いたと言います。

松陰の人生を振り返ると全く(本当に全くです)私(わたくし)の計算がないのですね。 あるのは公、若しくは天、神といった存在に対する揺るがない確信であり、自身の行動と言説を公、天、神の基準で律する純粋性です。 この松陰の純粋性があったから長州は時代を動かす力を持ちえたのである、と知る事が出来ました。そう考えると長州への印象が変わりました。 利害損得を超えて思索行動する事が重要であるのは松陰の時代に限りません。

なかなか松陰の様には生きることは難しいですが、人生で行う沢山の判断や行動の中で少しでも松陰の様な純粋性を基盤にしたものを増やしていければと思います。 結局、社会的地位も財産も死んであの世に持っていく事は出来ません。 持っていけるのはそういった判断や行動の総和だと思うからです。 そう言った事を考えさせられた萩訪問でした。